あるタレントが未成年に犯罪行為に及んで書類送検されたとか、覚醒剤を所持しているのが見つかったというニュースは少なくありません。
それまで順風満帆な人生を歩んできたのに、ある日突然、大きく道を踏み外して回復不可能の傷を負う人がいます。
「ハインリッヒの法則」によれば、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在するといいます。
これを誘惑に当てはめるなら、人生を棒に振るような大きな事件の背後には、300もの小さな誘惑があると言えます。
「これくらいバレないだろう」「まあ、みんなやってるし大丈夫だろう」
そのような小さな誘惑の一つ一つが、あるとき、家庭崩壊や人生を棒に振る大きな失敗につながることもあるのです。
聖書は、誰が誘惑するのか、誘惑に負けるのは誰の責任なのかについてはっきりと語っています。
①神は誘惑しない
だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。
聖書(1ヤコブ1:13)
②サタンは誘惑する
そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。
聖書(1テサロニケ3:5)
③誘惑に負けるのは自分の欲のせい
人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
聖書(ヤコブ1:14)
つまり、聖書は、人が誘惑にあって罪を犯すのは、根本的には自分の責任だという言っているということです。
最初の人間アダムは、食べてはならないと命じられた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
「なぜ、食べたのか?」と神に問われると、彼はその妻エバのせいにしました。
エバは自分をそそのかした蛇のせいにしました。
しかし、アダムもエバも、神様から罰を受ることになります。
結局、善悪を知る木の実を食べれば神のようになれると蛇に言われた時、欲に従ってその実を食べたのは、アダムとエバ自身だったからです。
蛇がエバを誘惑したように、サタンは現代においても私たちを誘惑します。
しかし、どんなにサタンのせいにしても、もちろんサタンは必ず罰を受けますが、私たちの責任が問われないわけではありません。
車で友達の家に来たのにお酒を少し飲んで、運転し、誰かを怪我させてしまったとします。
友達が「ちょっとくらい大丈夫だよ」と飲ませていたとしても、実際に飲酒運転で捕まるのは飲んだ人です。
では、どうやって誘惑に打ち勝つことができるのでしょうか?
それは、神様の力に日々、拠り頼むことです。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
聖書(マタイ6:13)
ここでの試みとは誘惑のことです。
サタンは私たちを誘惑します。
私たちは欲望に負けてしまいやすい性質を持っています。
だからこそ、常に、私たちは人生を棒に振るような大失敗を犯す可能性があるのです。
どんな人でもです。
だから、今日も、祈りましょう。
「私たちを誘惑にあわせないで、悪魔から守ってください」と。