最後の審判って何?すべての人に訪れる永遠の刑罰の宣告の時「地獄か天国かが決まる瞬間?」

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はじめに

今日は、聖書の中に書かれている、「最後の審判」について解説します。

「最後の審判」と聞いてミケランジェロによって描かれたシスティーナ礼拝堂の壁画を思い浮かべる方もいるかもしれませんね。その時代を代表する画家はもちろん、名の知れない者も「最後の審判」をテーマにして絵を描いてきましたが、私たちが「最後の審判」という言葉そのものから思い描くイメージといえば、もしかすると「恐れ」、「独りぼっち」、「裁き」等々かもしれませんね。そして、そのイメージの元はきっと、学校でしてはいけないことをした子供が、先生にひどく怒られている場面ですよね。

この記事を読めば、「最後の審判」がどのような出来事かわかるようになり、その時に至るまでに私たちがとるべき人生の方向性が見えてきます。

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聖書は最後の審判について何と言っているのか?

結論を一言でいうと、 最後の審判はイエス・キリストを救い主と信じる者には完全な喜びと慰めですが、そうでない者にとっては永遠の刑罰の宣告の時 です。

誰が裁かれるのか?

まず最初に押さえておきたいことは、最後の審判の時はイエス・キリストを救い主と信じる者にも、そうでない者にも訪れます。最後の審判の時に生きている人も、すでに死んている人も、すべて平等に裁きを受けることが決まっています。またどんなに成功を収めた富豪でも、人徳に優れた聖人のような人でも例外なく、正しい方(神)の前でその人の行いに応じて裁かれるのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

聖書(へブル9:27)

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

聖書(2コリント5:10)

裁きの結果はどのようなものか?

イエス・キリストによる裁きの座に立った後、人々は二つのグループに分けられます。一つは永遠のいのち、もう一つのグループは永遠のほろびです。そして、その裁きの判断の為に、二種類の書物が裁きの座では用意されていることが記されています。

また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

聖書(黙示録20:12)


「数々の書物」が開かれてその人に対する裁きがなされると書かれていますが、罪のリストと考えてください。その書物にはその人の行いはもちろん、その行いをした時の心の思いも記されているはずです。神様は人の心を見られ、動機を探られる方なのですから。

正しい者を試し、
思いと心を見る万軍の主よ。
あなたが彼らに復讐するのを
私にみさせてください。
私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。

聖書(エレミヤ書20:12)

「数々の書物」が広げられる時、弁明の時はなく弁護者もいません。言い換えればその時にはもう言い訳はきかず、罪の宣告を受け、永遠に焼かれる「火と硫黄の燃える池(黙示録21:8)」へ投げ込まれてしまうのです。
一方で「いのちの書」が開かれることが書かれていますが、そこには人の名前が記されていると言われています。イエス様はこの書についてこのように言われました。

・・・あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。

聖書(ルカ10:20)

「いのちの書」に名前が書かれた人は、さばきの座で自分の名前が記されているのを見て、完全な喜びと、救いの完成を楽しむようになります。では、この書に名が記されるためにその人がしたことは何でしょうか。

それは、この地上で命のある間にイエス・キリストのことを聞き、イエス・キリストが自分の罪の為に身代わりの十字架に架かって下さり、自分の為に死んでくださった。そして、イエス・キリストが死の力を打ち破り蘇られたことを信じたのです。

このように裁きの座には「数々の書物」と「いのちの書」の二つが用意されていますが、「いのちの書」に名が記されていることを確信している人にとってさばきの座は「恐れ」、「不安」、「独りぼっち」ではなく、完全な「喜び」と「慰め」を受けることが出来る場所であり、「永遠のほろび」か「永遠のいのち」かを吟味される場所ではなく、すでに得た「永遠のいのち」の立場を確かめる時なのです。

しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

聖書(2ペテロ3:13)

今のあなたができることは何か?

自分の罪を認め、私を愛し、私の為に十字架に架かられたイエス・キリストを個人的に救い主として信じ、受け入れることです。永遠のいのちへの約束はイエス・キリストの十字架と死、復活の業を信じる、信仰によってのみ与えられます。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

聖書(ガラテヤ2:16)

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

聖書(ガラテヤ2:20)

まとめ

 最後の審判はイエス・キリストを救い主と信じる者には完全な喜びと慰めですが、そうでない者にとっては永遠の刑罰の宣告の時 ということです。

1.すべての人は最後の時に裁きを受けることが決まっています。
2.いのちの書に名が記されている人は神との永遠の喜び、慰めを得ます
3.いのちの書に名が記されるには、イエス・キリストを救い主として信じることです。

参考資料:聖書辞典(いのちのことば社)
     終末論(いのちのことば社)
     新キリスト教辞典(いのちのことば社)

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