能力もあり、お金も十分稼いでいるのに、「まだまだ、もっともっと」と余裕のなさがにじみ出ている人がいます。
会社で高い地位にいるのに威張ったり、自分の非を絶対に認めないなど、「この人、器が小さいなぁ」と感じる人もいます。
これらの人は、仕事ができる、能力がある、お金をもっている、信用や経験があるなどという、条件で自分を肯定しようとする人です。
逆を言えば、「ありのままの自分でよい」「できない自分であっても価値がある」などという「無条件の肯定」という心の土台がグラグラしている人です。
完璧な条件を手に入れることは不可能ですし、自分の理想とする条件が一つでも崩れれば、途端に心が不安的になり、メンタルが病むこともあります。
聖書を読めば、神様はいつでも愚かなイスラエルの民を「無条件で肯定」していたことがわかります。
彼らは聞き従うことを拒み、彼らの間で行われた奇しいみわざを思い出さず、かえってうなじを固くし、かしらを立てて、逆らって奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ、彼らをお捨てになりませんでした。
聖書(ネヘミヤ9:17)
神様は荒野での40年間、イスラエルの民を様々な奇跡を通して守られました。
しかし、彼らは感謝を忘れ、むしろ高ぶって、エジプトに戻ろうとしました。
〈うなじをこわくし〉とは、農耕用の牛がくびきを付けるのを嫌がったり、暴れたりして逆らう姿からくるたとえです。
しかし、注目すべきは、神様の態度です。
神は、情け深ぐあわれみ深い方なので、彼らを赦し、捨てられませんでした。
このイスラエルの民は私たちを表しています。
神に反逆し、神を悲しませる罪の性質が残っているのです。
しかし、神様は、私たちが何をしたか、するかを愛の土台にしていません。
もちろん、私たちは自分がしたことに対する行いの刈り取りはすることになります。
しかし、罪に対する根本的な裁き、つまり死は十字架によって無罪放免とされたのです。
自分が今まで築いてきた、いや今築こうとしている「仕事」「能力」「お金」「信用や経験」がなくなったとしても、
神様は、変わらずに私たちを愛し、「そのままの私たち」を受け入れてくれていることを覚えましょう。
肯定されようと頑張るのではなく、神にすでに受け入れられているものとして、神への感謝と神への従順のために、「仕事」「能力」「お金」「信用や経験」を用いていきましょう。