- 友人と口論の末、相手を傷つけるひどい言葉を言ってしまった。
- 仕事で大きなミスをしてしまい、取引先はもちろん、自社にも大きな迷惑をかけた。
- 子どもが学校で自分の考えを言わないのは、私があれこれと指示しすぎたせいかもしれない。
罪悪感といえば、真っ先にこれが思い浮かぶのが、このだれかを傷つけてしまった、壊してしまったという「加害者の心理」です。
聖書は、神に対して犯した罪によって、人は罪悪感をもち、隠れるようになったと言っています。
そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
聖書(創世記3:8)
人類の祖先、アダムは、神様がこれだけは食べてはいけないと命じられた「善悪の知識の木の実」を食べてしまいました。
「神の命令を守らないこと」は罪なので、アダムは罪悪感を感じるようになりました。
注目すべきはその時のアダムの行動です。
彼は、何をしたでしょうか?
彼は、神様に見つからないように隠れました。
なぜ、アダムは隠れたのでしょうか?
それは、「神様は怒っているに違いない」「嫌われるかもしれない」「罰を受けるに違いない」と恐れたからです。
この恐れこそが、罪悪感の本質です。
自分がなんらかの言動により相手を傷つけてしまった時、相手がどう思おうが関係ない人は、罪悪感を感じません。
これは、これでまた問題ではありますが、すでにしてしまったことに対して「相手がどう感じているか」を推測して悩むのはあまり意味がありません。
自分が誰かを傷つけてしまった。迷惑をかけてしまったというわかりやすい罪悪感の場合、解決方法は簡単です。
「隠れる」のではなく、「謝る」のです。
普通子供は「ありがとう」と「ごめんなさい」が言える子になりなさいと教育されますが、大人の方がもっとできていないかもしれません。
罪悪感は、「謝りなさい」という神様からのサインだと考えればいいのです。
そう考えるならば、罪悪感はあながち悪いものではありません。
罪悪感が麻痺しているならば、人はその人から離れていくでしょう。
誠意を尽くし心から謝っても相手が受け入れないならば、それはもうあなたの責任ではないのかもしれません。
また、もし、どうしても謝ることが難しい場合、例えば、相手があまりにも怒っていて話すタイミングではない場合や、相手が遠方にいる場合、すでにこの世を去ってしまっている場合です。
その時は、神様に謝りましょう。
あの人に悪いことをしたと思います。ごめんなさい。
それでも罪悪感が残るなら、キリストが十字架でその罰を代わりに受けている事実を、今一度受け入れる必要があります。
私たちが謝る行為は重要ですが、その行為の本質的な赦しは相手ではなく神からきます。キリストの十字架からきます。