- いつも悲しんでいるお母さんを助けようと毎日愚痴を聞いたり、励ましたりしていたが、母親は一向に元気になってくれなかった。
- 健全な人よりも、問題のある人に惹かれ、一生懸命その人としあわせになろうとするが、うまくいかない。
- よかれと思って先輩の仕事をサポートしたが、むしろ足手まといになってしまい、力になれなかった。
誰かを助けたい、救いたい、役に立ちたい、迷惑をかけたくないと思って頑張ったけど、力及ばずうまくいかなかった場合も、人は罪悪感を感じます。
聖書に出てくる無力感という罪悪感に陥ったのは、イスラエルのダビデ王です。
ダビデは、神を信仰するイスラエルの王であるのに、不倫と、それを隠蔽するために殺人という罪を犯します。
神様は、預言者ナタンを遣わし、罰として彼の息子が死ぬと宣言しました。
ナタンは自分の家へ帰って行った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
聖書(2サムエル12:15)
彼は無気力、もしかすると、うつ状態と言ってもよい状態になりました。
彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。
聖書(2サムエル12:17)
食事をとれない、とらないのは、うつ的状態の中でもかなり危険な状況です。
ダビデは一体、何を考えていたのでしょうか?
おそらく、息子を救いたいけど「できない自分」を責めて落ち込んでいたことでしょう。
しかし、聖書を注意深く読むと、ちょっと、違う視点が見えてきます。
ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。
聖書(2サムエル12:16)
ダビデは、無気力感の中で、神に断食して祈っていたのです。
詩篇51編に、この時にダビデが書いたと思われる祈りが書かれています。
神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
聖書(詩篇51:1)
そして、彼は息子が癒されるように、神様に嘆願していました。
ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。
聖書(2サムエル12:22)
結局、息子は死にますが、祈ってたダビデは、周りの部下も驚くほど、早く立ち直ります。
家来たちは彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子様が生きておられるときは断食をして泣かれたのに、お子様が亡くなられると、起き上がり食事をされるとは。」
聖書(2サムエル 12:21)
ここに、誰かを助けたい、救いたい、役に立ちたい、迷惑をかけたくないと思って頑張ったけど、うまくいかなかった時に感じる罪悪感への対処法があります。
無気力感がやってきた時、罪悪感を感じる時、後悔の念で押し潰されそうな時、祈りなさいということです。
自分の罪を素直に告白し、「神様、憐んでください」と祈りましょう。
やってしまったことは元に戻せません。
しかし、どんなこともできる神様にボールを投げることはできます。
あとは、人事を尽くして天命を待つのです。
結果、願いが叶えられなくても、自分の罪の刈り取りをしても、あなたが「祈ったなら」それが神様からの最善の答えです。
あとは、後ろを振り返らず、前を向いて、立ち上がりましょう。