- 後輩の仕事がいきづまっていることに気づいていたが、「ここは放っておいても大丈夫だろう」と思って見過ごしていたところ、大きなトラブルに発展してしまった。あのときサポートしてあげていれば、もしかしたらなにも起きなかったかもしれないのに。
- 同僚の顔色が悪いことはわかっていたが「まあ、大丈夫だろう」となにも言わなかった。数日後、その同僚は病に倒れ、長期入院することとなってしまった。「あと数日早く治療していれば助かったのに」という声を耳にして、あのとき声をかけていれば、とひどく後悔することになった。
- 先輩のAさんとBさんがあまりしっくりいっておらず、自分が間に入って調整すればいいかもしれないと一瞬頭をよぎったが、そこまでしなくてもいいか、となにもしなかったところ、どんどん2人の仲が悪くなり、チームが崩壊の危機をむかえてしまった。
何もしていなくても、人は罪悪感を感じます。
表向きに罪に問われることもなく、周りも「そんなことないよ」と見方になってくれるため、1人で自分を責め続けることになります。
聖書に出てくる「何もしていない」という罪悪感に陥ったのは、イスラエルのダビデ王です。
王は顔をおおい、大声で、「わが子アブサロム、アブサロムよ。わが子よ、わが子よ」と叫んでいた。
聖書(2サムエル19:4)
王とは、ダビデのことで、アブサロムは彼の次男です。
アブサロムは、父ダビデに愛されていないという思いから、父に謀反を起こします。
親子で戦争になりますが、その中でアブサロムは死にます。
ダビデには王としての立場と父親としての葛藤が交錯していました。
なんとかして息子を救いたいが、王として国民を守らないといけない。
父親として彼に愛を注ぎたいが、うまく愛情を表現できない自分。
結局、優柔不断になったダビデは、息子を亡くし、イスラエルも戦争によってダメージを受けます。
その時の彼の心の葛藤を表した言葉が、先ほどの、聖書の箇所です。
この言葉から、ダビデは父親として何もしてやれなかった自分を責めていることがわかります。
実は、この次男アブサロムは、長男アムノンを殺害していました。
アムノンがアブサロムの妹にひどいことをしたからです。
その時、ダビデはアブサロムに向き合うことはしませんでした。
アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。
聖書(2サムエル14:28 )
ダビデが一方的に、アブサロムを避けているようでした。
最終的に、戦争でアブサロムを亡くすことになりますが、実は最初から最後までダビデは父親として、息子に向き合うことはしてこなかったのです。
私たちはどうでしょう?
「本来すべきこと」が分かっているのに、できない自分。しない自分。
いろいろな言い訳が思い浮かんでくるでしょう。
ダビデは、自分が殺人と不倫をしているので、同じ罪を犯した息子たちに自分を投影させて向き合いたくなかったのかもしれません。
では、何もしていない罪悪感を感じたらどうすればいいのでしょうか?
まずは、そのままの自分を受け入れ、認めることです。
父親として無責任な自分。自己中心な自分。
そんな自分を自分で責めずに、神様の前に出るのです。
神様はそんなあなたを責めません。むしろ、そのままの自分で周りに人に最善を尽くせるように助けてくれます。
神様の前では背伸びをしなくても大丈夫です。