キリスト教には「生まれながらにして罪を背負っている」という「原罪」という考え方があり、仏教でも戒律に反する行為などを罪としています。
イスラム教にも、神道にも、罪という概念があります。
熱心な信者であるほど「私は罪な存在だ」と思いこむようになり、罪悪感が生まれやすくなることも多いようです。
太宰治さんや芥川龍之介さんなど、聖書を読んでいましたが、まずます罪の念に苦しめられ、自ら命をたった人も少なくありません。
聖書は何と言っているのかを正しく理解するならば、むしろ罪悪感はなくなっていきます。
三つのポイントで、聖書が罪について何を言っているかをまとめましょう。
①すべての人が罪をもっている(原罪)
こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
聖書(ローマ5:12)
1人の人とは、人類の祖先、アダムです。
アダムが、神様が禁じていた善悪の知識の木の実を食べたことにより、全人類に罪が広がったと聖書は言っています。
②良心と律法は罪悪感を生じさせる(罪悪感)
私たちは生まれながらに、良心をもっています。
なので、聖書を読まなくても殺人はダメだと分かりますし、学校で習わなくても嘘をつくこともよくないと理解しているのです。
良心のおかげで、私たちは自分の中に罪の性質が住んでいることを認識することができます。
しかし、聖書には私たちの良心が罪によって不完全になっていると書いています[/su_highlight]
きよい人たちには、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた不信仰な人たちには、何一つきよいものはなく、その知性も良心も汚れています。
聖書(テトス1:15)
では人はどのように罪を識別できるのでしょうか?
それが、旧約聖書に書かれている「律法」です。
「殺してはならない」と言ったモーセの十戒を聞いたことがある方も多いと思います。
律法とは、イスラエルの民に対して、すべきこととしてはならないことが書かれています。
なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。聖書(ローマ3:20)
聖書(テトス1:15)
皮肉なことに、律法で罪が何かわかっても、その通りに行えない不完全な自分に直面し、罪悪感が発生するということです。
しかし、この律法による罪悪感は、神に救いを求めるという助けになります。
③キリストによってすべての罪は赦された(福音)
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
聖書(ローマ10:9)
ここが重要なのです。
信じるだけで救われるのです。
信じてもなお、不完全な良心から罪悪感を感じても、きっぱりとNOと言えます。
自分の中に住む罪がすでに十字架で処罰され、裁判官が罪状に「罪なし」とハンコを押している状態です。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
聖書(ローマ8:1)
世の中の宗教は、この「赦された」「罪が処理された」という安心感と救いの確信がありません。
ぜひ、今罪悪感を感じている人は、③の福音をもう一度、受け入れましょう。
これが福音です。