バブル経済崩壊直後の1992年に出版され、たちまちベストセラーになった『清貧の思想』という本があります。
バブルの夢から覚めた日本人は、金銭欲と物欲を追い求める価値観を見失った時、「精神的な豊かさ」という新たな価値観を示され、心引かれたのかもしれません。
「清貧」とは辞書によると「無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていること」という意味のようです。
聖書は、富と貧しさのどちらがよりよいと言っていません。むしろ「神が与えてくださるもので満足すること」が最も大事であると言っています。
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。
聖書(箴言30:8)
この祈りをしたアグルという人は、「富と貧しさの両極ではなく中間の状態」を求めました。
そして、「私に定められた分の食物」という非常に抽象的なことを祈ります。
「私に1億円与えてください」でもなければ、「高ぶらないようにあえて貧乏にしてください」とも祈っていないのです。
「私に定められた分の食物で、私を養ってください」というフレーズは、視点が自分ではなく、神です。
衣食住の全ての必要は神様から与えられる、与えれているものであり、これからも神様が自分を養ってくれるという信頼です。
この後に、なぜ、彼が「貧しさも富も私に与えず」と言ったのか理由があります。
私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。
聖書(箴言30:9)
確かに富はしばしば人間を傲慢にし、神を忘れさせる誘惑があります。
しかし、一方で、貧しすぎると余裕がなくなり、盗んでもしょうがないと自分の行為を正当化する可能性もあります。
つまり、これは、お金があるかないかという状況が問題なのではなく、どちらの状況でも人間は「神に対して罪を犯す」弱さがあるということを認める謙遜な祈りなのです。
キリスト教会の中にも、2つの両極端ともいえるメッセージがあります。
いわゆる「繁栄の神学」と、「清貧の思想」と呼ばれるものです。
ある方のブログに書いていましたが、その方はそれぞれのメッセージを聞くとどちらも正しいように思え、魅力を感じたそうです。
繁栄の神学に基づくメッセージがされているときは、「そうだ ! 神さまの祝福をたくさん受け取って、隣人と分かち合っていこう」と、心を燃やされる。
清貧の思想に基づくメッセージがされているときは、「そっかー。欲張らず、平和な生活をしていけることに満足して生きよう」と、へりくだった気持ちになる。
一方で、繁栄の神学を大切にする方は、「貧しいことは天罰である」といい、清貧の思想を重視する方は、「豊かな富を所有することは罪である」というようです。
つまり、一体、どっちが聖書的なんだ?と。
みなさん、先程の箴言の箇所からお分かりですね?
聖書は、どっちか白黒決めるよりも、神に信頼し、今の状態に満足すること。感謝することが大切であると言っているのです。
私たち人類は、アダムが善悪の知識の木の実を食べたことで、何にでも白黒つけたがる、つまり善悪を自分で判断する性質が芽生えたのです。
貧しさと富に振り回されるのではなく、他人と比べて貧しいか金持ちかを判断にすることもせず、神様がその時、その時に、与えてくださっているものに、常に満足し感謝する。
これが、聖書的なバランスの取れた人生です。