虐待されて殺された人や動物の叫びを神は聞いているのですか? 「息子を殺した人が神に赦されているのを赦せなかった女性の話」

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今回は、虐待されて殺された人や動物の叫びを神は聞いているのですか? 「息子を殺した人が神に赦されているのを赦せなかった女性の話」という疑問について、聖書にどのように書かれているのか説明していきます。

このクリスチャンQ&Aシリーズでは、クリスチャンに関わる素朴な疑問から、少しディープな問題、普段はなかなか聞きにくい内容…等について、洗礼を受けて4年のこうきさんがゆうき牧師に質問をしていき、聖書をもとにわかりやすく解説していくシリーズとなっています。

この記事の内容はYouTubeでも話しているので、よかったらYouTubeも見てくださいね。
取り上げて欲しい疑問や話題があれば、ぜひYouTube動画のコメントでリクエストをお願いします。

前回の質問「動物虐待は人間だけの責任?」

こうき
こうき

前回は「動物虐待は人間だけの責任ですか?」というテーマでした。(ぜひ前回の記事も読んでみてください)

今回は、「悪徳ペット業者が犬に虐待をして殺している、果たしてその犬たちの心は救われないのか?」という質問です。

今回の質問「被害にあった側の心は救われないのか?」

こうき
こうき

ここで、私がさらに疑問に思ったことがありました。

同じようなことが、動物だけではなくて子供にも起きているし、戦争で拷問を受けて人が亡くなるということがニュースでも見ますよね。
虐待された側、亡くなった子供や亡くなってしまった人の心は救われないのか? もしその人たちが、クリスチャンであってもなくても、どのように捉えればいいのかなと思いました。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

その「救われる」というのは、天国に行くかどうかではなくて、その人たちの叫びを神さまは知ってるのかということですか?

こうき
こうき

はい、そういう意味です。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

結論、神さまは全て知っておられます

結論:神さまは全て知っている

ゆうき牧師
ゆうき牧師

聖書的な根拠は、カインとアベルが人類最初の殺人事件になったところです。創世記の4章でカインがアベルを殺しました。

主は言われた「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。
聖書(創世記 4章10節)

ゆうき牧師
ゆうき牧師

アベルはアダムの子どもなので罪人ですけれども、神さまを信じているし、良いささげ物を献げていて、神さまの目からは殺されるのに値しない人でした。
それが、カインによって殺されたわけです。それを神さまはちゃんと知ってるという箇所ですね。根拠はここにあります。
アベルは天国に行ったと私は思います。神さまにささげ物もしているし、神さまを信じていました。

この血が私に向かって叫んでいるというのは、わたしは見過ごしていないよという、神さまの表現だと思います。この血は誰が流したのか? 誰がやったのか? この不義は何だ? という叫びを、神さまは聞いているし、カインに対してそれを問う、ということですね。

神さまが必ず報いてくださります。神さまが血の報いをされます。だから正しく裁くことができるんです。

罪と赦しが題材の映画「シークレットサンシャイン」

ゆうき牧師
ゆうき牧師

私が韓国の神学校で見た韓国の映画で、ミリャン(邦題:シークレットサンシャイン)という映画がありました。

↓ネタバレ注意!!!


あるお母さんのお話で、ひとり息子がいたんですが、その息子が誘拐されて殺されちゃうんです。それでもう人生終わりだというときに、教会に行き聖書に出会って救われます。

神さまに出会ってよかった! となるんですが、聖書の中で隣人を愛しなさい、赦しなさいという箇所について牧師と話していて「私はこれを実践してみます」と、息子を殺した犯人に会いに刑務所へ行くんです。

そこで犯人へ「私は、あなたを赦します」と伝えます。
そうすると、刑務所にいるその犯人がずっと笑顔なんです。「はい、そうですか。私も実はこの刑務所でイエス・キリストに出会いました。私もクリスチャンです。私も自分がどれほど罪深いかわかり、それでもイエスさまが私の罪を赦してくださったことを私は悟っています。私は赦されています」といったんですよ。

お母さんも救われて赦すという決断をして、犯人へ会いに行った。
その殺人犯も刑務所の中でイエスさまを信じていて、自分の罪は赦されたと言ってる。

その後何が起きたかというと、そのお母さんが発狂するんです。
自分は犯人を赦すと思って会いに行ったけれど、相手は自分が赦すことを伝える前に、すでに神さまから赦されていると実感していた。それを受け入れられなかったんです。

こうき
こうき

「赦します」って言って、犯人から「ありがとう」と言われたかったんでしょうね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

自分がクリスチャンになったから、あなたを赦すことができたんですよって伝えて、犯人は「そうですか、私は未だに罪悪感があります。でもあなたがそう言ってくれてうれしいです」って言われたら、良かったんでしょうね。

こうき
こうき

自分もその立場になれば、きっとそう思ってしまいます。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

犯人の立場から見れば、悪いことをしたけれど、イエスさまを信じて罪が赦された。
でも、お母さんの立場から見れば、自分の息子を殺しておいて、平安な顔をしてるなんて赦せない。
すごく生々しい映画です。

こうき
こうき

すごくこの映画、興味が湧きますね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

私はこの映画をクリスチャンの人によく紹介しています。
一緒に見てディスカッションしたりしますね、すごく考えさせられます。

クリスチャンになって良かった、赦された!イエスさまは信じる人の罪を赦してくださる!というのは簡単ですが…
自分がお母さんの立場だったら?自分の息子を殺した犯人が、イエスさまに出会って人生変わりました、赦されました!と言ったら、どう感じるか?
でも、聖書では赦されることになる。

こうき
こうき

私たちもその祝福に預かっているんですよね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

一つ私の考察をしては、このお母さんは自分は人を赦せる、赦すべきだと、義人のようになりすぎてしまったのかなと思います。
自分の中の本当の怒りや苦しみと向き合いきれないまま、犯人に会いに行ってしまったのかなと。

どこかに少しでも自分本位な動機や思いがあれば、相手も神にあって赦されたと平安を受け取っていた場合、発狂するようなことになってしまう。

加害者が赦されたたら、誰が罪を負う?

こうき
こうき

今回の質問で言うと、たとえばペットの悪徳業者もさんざん犬を虐待し殺しても、イエス・キリストに出会って信じますとなったら、その罪は赦されていることになるりますよね。

では、果たして被害にあった犬の気持ちはどこへ? という話ですよね。
神さまがその声を聞いてくださっているけれど、でも、もう加害者が神さまを信仰して赦されているなら、裁く相手がいないのではないですか?

すべての答えが、イエス・キリストの十字架

ゆうき牧師
ゆうき牧師

裁く相手はいますよ、それがイエス・キリストの十字架です。神ご自身が裁かれたんです、その加害者側である悪徳業者の罪のために。すごいでしょう?

こうき
こうき

そうか、そこへ辿り着くんですね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

「それは理不尽じゃないか? イエスさまじゃない、その加害者自身が罰を受けるべきだ!」と思う人がいるかもしれません。
でも、それを言ってしまうと、私たちは誰も救われなくなります。人が人を正しく裁くことはできません。

こうき
こうき

確かに、人間的には、手を下した本人に罰を与えてほしいって思ってしまうかもしれない。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

それが、私たち人間の性です。
でも、その論理では私たちもみんな裁かれてしまいます。私たちも自覚なしに罪を犯して、赦されていることがたくさんあると思います。

こうき
こうき

深いですね。でもその、どこにも行き場のないものを全部負っていただいているのが十字架だということですね。

ゆうき牧師
ゆうき牧師

十字架がアンサー、全部の答えです。どんな話も、最終的には十字架が答えになるんです。

まとめ

Q .虐待されて殺された人や動物の叫びを神は聞いているのですか?
A .神さまは全て知っています。聖書的な根拠は、創世記4章にあるカインがアベルを殺したところです。この血を、わたしは見過ごしていないという、神さまの表現が書かれています。
 しかし、虐待した側も、イエス・キリストに出会い悔い改めるならば、罪が赦されます。
 そこで矛盾を感じるのは、人間の性です。すべての人の罪をイエス・キリストが十字架にかかって、神ご自身が人間の罪のために裁かれました。これがすべての答えです。



最後まで読んでいただきありがとうございます。このメッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。

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