現代は、科学のが目覚ましい発展によって、世の中が便利になり、多くの病気が克服できるようになってきました。
しかし、未だに解明されていないことも多くあります。
例えば、人間どこからきたのか?この世はどうやってできたのか?
もちろん、進化論やビッグバンなどの研究はありますが、科学で完全に証明されている訳ではありません。
また、人間が死んだ後にどこに行くのかは、共通した答えがありません。
聖書は、真の知恵にたどり着くには、2つのことが必要だと言っています。
①人間の限界を認めること
まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。
聖書(箴言30:2)
歌手の森山直太朗さんの「生きとし生ける物へ」という歌に「もはや僕は人間じゃない」という歌詞が出てきます。
森山さんがどういう意味でこのフレーズを使ったのかはわかりませんが、この聖書の意味は、自分はほかの人と比べると「愚か」だと言う告白です。
この愚かのへブル語はヴァアルといい、知恵のない人を指します。
ここでは、自分がほかの人よりも知的能力が欠けているということではなく、完全な知恵がないということで、人間が持つべき謙遜な態度を教えているのです。
真の知恵にたどり着くための2つ目のポイントは
②創造主の完全さを悟ること
私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も持っていない。
聖書(箴言30:3)
この著者が自分が「愚か」だと言った理由は、「知恵を学ばず、聖なる方の知識も知らない」からです。
ここでの「知恵」とは創造主である神だけが知っている知識のことです。
これを創造秩序と言い、神がこの世を造られたときに立てられた世界の秩序であり、聖書を知らない人にも「ゴールデンルール」とも呼ばれたりします。
聖なる方の知識とは個人的に、 創造主であり主権者である神を知る知識が足りないことです。
4節で彼は、自分には悟り得ないことを列挙します。
だれが天に上り、また降りて来たのか。だれが風を両手のひらに集めたのか。だれが水を衣のうちに包んだのか。だれが地のすべての限界を堅く定めたのか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。
聖書(箴言30:4)
このような「世界がどのようにできて保たれているのか」という創造についての知識は、人間を謙遜にさせます。
この世界を完璧に造られた神の偉大で広大な摂理と、人間の限られた小さな知識を比較するなら、人間は愚かな存在でしかないのです。
知恵には逆説的な特徴があるということです。
自分に知恵があると考えるなら知恵のない愚かな者であり、自分の知識の限界を知って神の知恵を求める者が真に知恵のある者だということです。
どんなに世の中が便利になり、多くの病 気が克服できるかのように見え、科学技術が目まぐるしく発展を遂げても、私たちの知恵は神の知恵には決して及ばないことを認めなければならないのです。
①人間としての限界を認め、②創造主の完全さを悟った人だけが、神が造られた世界と人生の原理を見いだすことができます。
なぜでしょうか?
5節にヒントがあります。
神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。
聖書(箴言30:5)
神が全ての完全な知識を持っているなら、聖書に書いてある神の言葉によく聞き従うことで、それらを得ることができるということです。
私たちはどうでしょうか?
知らず知らずのうちに、「なんでも知っている」と無意識に思ってしまい、神の言葉に聞き従う心が薄れてしまってはいないでしょうか?
どんなに素晴らしい才能や富を持っている人でも、人生の苦難を通った時に、自分の無力さを悟ることになります。
その時に、目を向けるべきは、誰でしょうか?
尊敬する人ですか?成功者の言葉ですか?本ですか?自分の声ですか?
この世を創られた神に祈りましょう。
必ず、どんな苦難をも乗り越えられる知恵を私たちに与えてくださいます。