はじめに
今日は、なぜ、お金を神と人のために使うのが聖書的なのか?についてお話します。
前回の記事では、「私たちが稼いだお金を、神様や人々のために用いる」ならば、「この世での人生が終わったとき、天国という永遠の報いとして返ってくる」ということを次の箇所から学びました。
わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
聖書(ルカの福音書16・9)
もちろん、ここの意味はお金を神様や人々のために用いると天国に行けるという意味ではありません。
イエス様を信じて救われた人は、神様や人々のために用いるのが当然の流れだということです。
自分のために使うことは決して悪くありませんが、そのお金を神と人を愛するために使うなら、必ずあなたに報いとして返ってきます。
究極の報いとは「神様が喜ばれる」ということが私たちの喜びになるということです。
神様を喜ぶことが人間の一番の幸せだからです。
なぜ、お金を神と人のために捧げるのか?という問いに対して、神様からの報いの他にも聖書は答えています。
今日の記事を見れば、なぜ、お金を神と人のために捧げるのか?と言う理由を聖書から知ることができます。
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「なぜ、お金を神と人のために捧げるのか?」
①お金は、神様の所有物だから。(詩篇24・1)
大大大前提として、お金は神様のものです。
まず、この世の全てのものは主のものです。
地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主のもの。
聖書(詩篇24・1)
人間が無から作り出したものではないので、人間が工場で刷った紙幣であっても神様のものです。
より具体的に、金と銀は神様のものであると言う記述があります。
銀はわたしのもの。金もわたしのもの。──万軍の主のことば──
聖書(ハガイ書2・8)
もともと、紙幣が使われる前は、金や銀が使われていたので、「お金は神様のものだよ」と神様が宣言されていると言えます。
そして、これは献金に関して言っている箇所です。
もともと神様のものであるのに、それを自分のものとして所有しようとする人に対し、神様はこのように言われました。
人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。
聖書(マラキ書3・8)
「盗んでいる」とは、誰かの所有物を盗むと言うことです。
お金が神様の所有物なのに、なぜ私たちの財布にお金が入っているのでしょうか?
銀行の名義は「イエス・キリスト」ではありません。
それは、お金は、私たちが生きている間だけ、神から預けられているものだからです。
預けられているということは、預けている人の目的があるはずです。
目的を達成するもの。それは手段です。
また、勘違いしてはいけないのが、「お金自体は決して悪いもの」ではないということです。
実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
聖書(伝道者の書5・19)
私たちが労苦の代価として、お金を手に入れることに、後ろめたさを感じる必要はないのです。
要するに、お金を良いものにも、悪いものにもするのは、私たちのお金の使い方です。
神の所有物なら、神様が喜ぶことのために使うべきです。
神様が喜ぶことは、神と人を愛するために賢く使うことです。
②お金は、天国に持っていけないから。(テモテへの手紙 第一6・7)
死んだら財産は、私たち以外の人の手に渡ります。
普通は、家族に相続されます。
聖書も、そのことをはっきり書いています。
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。
聖書(テモテへの手紙 第一6・7)
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
聖書(ヨブ記1・21)
人類史上、最も栄華を極めたソロモン王は、伝道者の書を書いたと言われていますが、彼はどんなに富を稼いでも、それを持ってこの地上を去ることはできず、後継にそれを渡さないといけないと言っています。
私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。
聖書(伝道者の書2・18)
であるなら、お金はこの限られた地上での人生の中で、どのように使うかが一番大事だと言うことです。
イエス様は、お金をたくさんため込んで死んだ貪欲な男の例え話から、この地上で神様が喜ぶ人生を送ることが、どれだけ大切かを語られました。
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
聖書(ルカの福音書12・15-21)
それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
お金は限られた人生の中でしか使えないのなら、神様が任された目的があるはずです。
神様が任された目的は、神と人を愛するため
③お金は、価値のあるものに交換する媒体に過ぎないから(申命記14・26)
お金(貨幣)は、創世記には出てこないので、何かの代わりに過ぎないと言うことがわかります。
神様は直接お金を創造されなかったのです。
アダムとイブの子供であるカインとアベルは、それぞれ作物と家畜を神様に捧げました。
しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
聖書(創世記4・3-4)
これは何か価値のあるものを捧げることにより、神様への愛や忠誠を表す礼拝行為です。
旧約聖書を見ていくと、この礼拝としての捧げ物は、モーセの時代には金になっていたことがわかります。
千人の長や百人の長たちが主に献げた奉納物の金は、全部で一万六千七百五十シェケルであった。
聖書(民数記31・5)
食べ物と交換できる価値があると社会で認められていたからです。
あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。
聖書(申命記14・26)
現代では、家畜や金が、紙幣に変わりました。
つまり、お金は、何か価値のあるものに交換する媒体に過ぎないと言うことです。
経済のちょっと難しい話になってしまいますが、例えば日本でものすごいインフレ(物価上昇)が進むと、1万円の価値はどんどん下がります。
今まで、100円で買っていたコカコーラは、1万円払わないと買えなくなると言うことも起こりえるのです。
このように、お金の価値というのは、経済状況で変動しするので、「口座に日本円を1億貯めていれば安泰だ」とは必ずしも言えないです。
なので、お金を闇雲に稼いでため込むのではなく、お金が交換できる「本質的な価値」に意味を見出すことが大事なのです。
人間が与えることのできるもので最も価値のあるものは、何でしょうか?
愛です。
「愛している」とう言葉でも表現できます。
「助けてあげる」ことでも愛を与えられます。
また、プレゼントを通して、愛を表現できます。
そのプレゼントを買うために、お金が必要になってくる場合があるわけです。
命はお金で買えませんし、人間が与えることはできません。これから社会はますます、ITや科学、お金を用いて、命を生み出そうとするでしょう。
なので、お金は何かを与えるための単なる手段にすぎません。
あくまでどのように使うかが大切だということです。
お金は、価値のあるものに交換する媒体に過ぎないなら、神様が価値を置くものと交換するべきです。
神様が価値を置くものは、神と人を愛することです。
まとめ
それでは、今日の話をまとめましょう。
なぜ、お金を神と人のために捧げるのか?
- ①お金は、神様の所有物だから。(詩篇24・1)
- ②お金は、天国に持っていけないから。(テモテへの手紙 第一6・7)
- ③お金は、価値のあるものに交換する媒体に過ぎないから(申命記14・26)
次回は、「なぜ、お金を神と人のために使うのが聖書的なのか?」のもう一つの理由について聖書から説明します。
乞うご期待!