はじめに
多くの人が、お金のことを大っぴらに話さないように、教会の中でもお金について話すことは多くないようです。
でも、多くの教会では、礼拝の中でお金が集められます。
それを専門用語で、「献金」と言います。
お金が集められている以上、この献金とは何かをしっかりと聖書から知っておくことは重要です。
なぜなら、私たちはそれぞれ、お金について多種多様なイメージを持っており、その考えが献金にまでも影響するからです。
もし、あなたの中に、献金に対するネガティブなイメージがあるのなら、ぜひ、今日の動画から本来の献金の意味を知ってほしいと思います。
献金は、お金を神と人のために使う3つの方法の重要な一つだからです。
この記事は2020年に出版した「仕事と聖書」という本の内容が元になっています。もし、この動画の内容が少しでもためになったと言う方は、こちらからLINE友達か、メールマガジンの登録をしてください。
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「「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのでしょうか?」
これから3回に分けて、3つ取り上げたいと思います。
今日は、その一つ目、「地域教会を通して、神様に献金する」です。三つのポイントで、献金について見ていきましょう。
①献金って何?
献金は、礼拝の行為です。
「お金よりも神様が大切です」ということを実際の行動で表す行為です。
献金は、信仰の行為です
「これからも、あなたが私を導いてくださることを信じます。」ということを実際の行動で表す行為です。
献金は、感謝の応答です。
「いつも、養ってくださる神様ありがとうございます。」ということを実際の行動で表す行為です。
前提として、神様は私たちからお金を貰わなくても大丈夫です。
間違っても、「私たちが捧げないと、神様だって生活に困るだろう」と思わないでください。
私たちの中に「献金しなくちゃ」とプレッシャーがあるなら、何かずれてます。
「しなくちゃ」ではなく、「したい!捧げたい!」が献金の基本であり、本質です。
大切なのは、捧げる人の心です。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
聖書(コリント人への手紙 第二9・7)
じゃあ、思いがなければしなくても良いのか?と言われればノー!です。
感謝が生まれないわけがないので、私たちは私たちの心を点検する必要があります。
「あなたを養っているのは神様ではないですか?」
「あなたを創造し、真理に導き、人生を救ってくださったお方に対して、感謝がないのですか?」
そのお方に、応答するのは必然です。
礼拝の心や、溢れる感謝が生まれないのは、神様の恵みに気付いてないか、鈍感になっているか、お金に囚われているかでしょう。
前にも触れましたが、お金は神様の所有物です。なので、私たちが「これは俺が汗水たらして稼いだものだ。だから、どう使おうが勝手だ」というなら、こちらも態度が間違っています。
②どれくらい献金するの?
教会に初めて来る人や、クリスチャンになりたての人によく聞かれるのが、この質問です。
「献金はどのくらいすればいいのですか?具体的な金額を教えてください」
皆さんはこの答えに対する明確な答えを持っていますか?
結論を言うならば、あなたの神様への気持ちに応じてしてください。
そうはいっても具体的ではなく、難しいので、私は目安として収入の「十分の一」で問題ないと考えます。
旧約聖書には、私たちの十分の一は主のものとして捧げなさいと書いています。
人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。
聖書(マラキ書3・8-10)
あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。
聖書(レビ記27・30)
「十分の一もしないといけないのか!」と怒らないでください。
寛大な神様は、「よく頑張って稼いだね!十分の九は、自由に使いなさい」と言ってくれてるとも取れませんか?
もちろん、神様の御心に沿って、自由に使うことが望まれています。
では、「十分の一」とう割合はどうでしょう?
この割合が、現代クリスチャンの私たちにも適用されるかどうかは、牧師や学者によっても分かれているように思います。
「普遍的真理なので適用される」という人と、「モーセの律法は終わったので適用されない」という人。
結論から言うと、そんなことで議論せずに「十分の一」すればいいじゃんと言うのが私の意見です。むしろ、「十分の一」にこだわらず、どんどん捧げたいよね!って言いたいです。十分の二、十分の三、十分の十…
なぜ、このような議論が起こるかは、きっと、「十分の一しなさい」と誰かに言われ、「なんでだよ!そんなことどこに書いてあるんだよ!」
「聖書に書いてあります」「それは旧約の律法でしょう?じゃあ、あなたは安息日守るんですか?」とかなったからかなと思います。
確かに聖書に書いてますし、献金することは礼拝行為であり、大きな祝福であることには異論がないなら、その人の信仰に応じて捧げればいいと思います。捧げた人は、その祝福をガンガン証しして欲しいですね。
私は生まれて間もない時からクリスチャンだったので、十分の一を習慣的に捧げていました。
でも、大学生の時に、イエス様に個人的に出会って(ボーンアゲインというやつ?)、神様好きすぎて、感謝したくて、捧げたくて捧げたくてしょうがなくなって、財布の中身を全部したことがあります。
その時、「十分の一」とか考えてたかと言われれば何も考えてませんでした。
ただ、嬉しくて嬉しくて、イエス様が好きで好きで、喜んで捧げたのです。
別にこれは自慢でも何もないし、見返りも求めてません。
たまに、献金に対して冷めた自分を見つける時がありますが、その時は心を点検するようにしています。
「ゆうき、なんか信仰がずれてないか?」というアンテナにもなります。
ちなみに、旧約聖書で最初の十分の一は、アブラハムです。
また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
聖書(創世記14・18-20)
彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。
いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。
新約聖書には十分の一という数字はでてきません。
でも、献金を収入に応じて、定期的に捧げるようにという勧めは出てきます。
私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。
聖書(コリント人への手紙 第一16・2)
持っている額に応じてという箇所があります。
この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは献金を実行することだけでなく、その志を持つことも、昨年から始めて他に先んじていました。
聖書(コリント人への手紙 第二8・10-12)
ですから今、それをやり遂げなさい。喜んでしようと思ったとおりに、持っているものでやり遂げてください。
喜んでする思いがあるなら、持っていないものに応じてではなく、持っているものに応じて受け入れられるのです。
これは収入の一部を表しています。
もしかすると、パウロは当たり前のように収入の十分の一を基準に考えていたのかも知れません。
なので、個人的には収入の十分の一で良いと思います。
③どこに献金するの?
次に、問題になるのはどこに捧げるか?ということではないでしょうか?
神様に献金すると言っても、神様専用の口座はないので、必ず何かを通して、捧げることになります。
私は、所属している地域教会の礼拝を通して捧げることをお勧めします。
理由は、
- 定期的な献金は地域教会で行う礼拝行為の一環であるため。
- 定期的な献金は所属している地域教会の運営を支えるため。
です。
賛美などの礼拝行為も広い意味で言えば、一人で家でしても問題ないはずですよね?
でも、地域教会で神の家族がともに礼拝することはとても大事です。
いや、不可欠です。
同じように、献金も、「個人的にどこでも好きなところに捧げても良い。それが献金だ」というならば、何かを見落としています。
イエス様がかしらである、神の家教会で捧げることには大きな意味があるのです。
旧約聖書を見ると、レビ族はイスラエルの民からの捧げ物の十分の一を通して、生活を維持していました。
これは「お互い仕え合って支えなさい」という神様の律法でした。
現代のクリスチャンに、このモーセの律法はそのまま適用できませんが、エッセンスは適用するべきだと思います。
それは、「お互い仕え合って支えなさい」という律法の精神、エッセンスです。
教会の働き人は、空から降ってくるパンを食べて生活しているのではありません。教会の献金の一部を生活費にしています。
「いやいや、生活費を稼ぐために牧師も働きなさい!」という人がいますが、それは教会員がいうことではないと思います。
パウロは、教会の外でも職をもち生活費を稼いでいたようですが、教会に対してはこのようにチャレンジしていました。
モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。
聖書(コリント人への手紙 第一9・9-11)
私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。
私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
教会に仕えている働き人が、献金から支えられるのはある意味、当然ではないですか?ということです。
よく聖書を見てみると、パウロも100%天幕作りの収入で生活していてわけではありません。教会や信徒からの献金によっても、支えられていました。
ただ、彼は教会に養われて当然だと権利のように使うことはしなかったのです。
そこは、働き人がよく注意するところだと思います。
自分が所属している地域教会に「捧げたくない」という人は何かがずれている可能性があります。
私たちは、多かれ少なかれ、目に見える地域教会にお世話になっているのではないでしょうか?
そこの場所代や活動費などは、誰が払うのでしょうか?
もちろん、神様が責任を持ってくださるという信仰が第一です。
しかし、教会員として定期的に捧げるということは、教会員の責任を果たすことでもあるのです。
教会に所属しているのに、「強制じゃないんだから、俺は教会には献金しないね!好きなところに寄付するよ」という人を止める法律はありません。
しかし、まるで、大人になって仕事を持っているのに実家にいて、ご飯を食べて、寝ても、親に一銭も入れない子供のようです。別居していても、親に感謝を持って、収入の一部を送ることは、良いことだと思います。
神への献金は、「お金を神と人のために捧げる」第一の具体的な行為なのです。
まとめ
「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのでしょうか?
今日は、その一つ目、「地域教会を通して、神様に献金する」です。
三つのポイントで、献金について見てきました。
- ①献金って何?
- ②どれくらい献金するの?
- ③どこに献金するの?
次回は、「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのか?
2番目の方法について聖書から説明します。
乞うご期待!