はじめに
タダより高いものはない。だから簡単に人から施しを受けるべきではない。
この言葉は、ビジネスの世界ではよく聞く話です。
なぜ、施しを受けるのが危ないのかというと、人は無意識に「ギブアンドテイク」の考えが染み付いているので、何かをされたらお返ししたくなるからだそうです。
これは心理学の世界では返報性の法則(へんぽうせい)と言われています。
影響力の武器という本で有名になりましたね。
しかし、誰かが善意で奢ってくれた際に、「操られたくない」と言って警戒するのも、ちょっと嫌ですよね。
また、お返ししないと「あいつは無礼な奴だ」と言われるのも嫌ですね。
だったら、奢るなやと言いたくなります。
もちろん、感謝を表すことは大切です。
でも、お父さんが子供に、今までお前に費やした食費、住居費は、成人後に払ってもらうぞと言ったら私はひきます。
そんなお父さんいますかね?
つまり、これは、施す側の問題だということです。
施す人が、施したことを忘れ、リターンがなくても全然気にしなければ、相手がどんなに無礼であっても問題ないのです。
今日の記事を読めば「施し」という行為を神と人を愛するために行う秘訣を聖書から知ることができます。
それがわかると、与えるものの幸せを体験することになるでしょう。
この記事は2020年に出版した「仕事と聖書」という本の内容が元になっています。
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「「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのでしょうか?」
今日は、その二つ目、「必要のある人に施す」です。三つのポイントで、施しについて見ていきましょう。
①施しとは何か?
「施す」という単語はあまり馴染みがありません。
辞書には、
恵まれない人に物質的な援助を与える。あわれみの気持ちで、人が困っている状態を助けるような行為をする。
出典・デジタル大辞泉(小学館)
とあります。
なぜ、普段あまり使わないのか?それは、クリスチャンこそできる行為だからです。
自分自身が神様からいただいている恵みを、他の人に分け与えることだからです。
お金も神様からの賜物だと考えれば、他の人に分け与えるという発想が可能です。
初代教会は、救われた喜びから、自分たちの持ち物や財産を必要のある人に分け与えていました。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
聖書(使徒の働き2・44-45)
財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。
聖書(使徒の働き4・35)
初代教会は、信仰を言葉だけではなく、実践を持って社会に証ししました。
わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
聖書(イザヤ書58・6-7)
飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。
聖書は、施しを積極的に勧めています。
善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、
聖書(テモテへの手紙 第一6・18)
聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。
聖書(ローマ人への手紙12・13)
ここで重要なことは、本当に必要を感じている人に施すということです。
見返りを求めて施しをするということは違います。
自分を富ませるために貧しい人を虐げる者、富む人に与える者──どちらも欠乏に至るのみ。
聖書(箴言22・16)
施しは、困っている相手への愛を実践する行為なのです。
この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
聖書(ヨハネの手紙 第一3・17)
②施しをするときの注意点
施しをするときの注意点があります。
それは、私たちが高慢になってしまうことと、相手が施しをした人に依存してしまうようになることです。
高慢にならないためには、まず喜んで捧げ、その後は気にしないことです。
気前よく施して、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんで、かえって乏しくなる者がある。
聖書(箴言11・24)
そして、高慢にならずに相手も依存しない方法があります。
それは、匿名献金です。
封筒の表面に必要を感じている人の名前を書きます。それ以外は何も書かないのです。あなたの名前も書く必要はありません。
もし、その人が同じ教会に属しているなら、そのまま礼拝の時間に献金袋か箱に入れて完了です。相手は、あなたが捧げたことを知らないので、ただ神様に感謝して、あとは自由に使うのです。
もし、その人が同じ教会でないなら、その人の家の郵便受けに入れるという手もあります。
このみことばを実践する方法です。
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
聖書(マタイの福音書6・3)
③施しと献金の違い
では、前回の地域教会を通して、神様に献金すると今回の必要のある人に施すの違いについて説明します。
べタニヤのマリアが香油の壺を割って、高価な油でイエス様の足を洗った時、弟子たちは「もったいない!貧しい人に施した方がいいのに!」と言いました。
これは、献金と施しのわずかな違いを表しているといえます。
ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
聖書(マタイの福音書26・7-9)
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
神様への献金のベクトルは、神様に向いています。
施しのベクトルは、人々です。
礼拝としての神への献金は、所属している地域教会にされる方がほとんどだと思います。その場合、こちらが自由に誰かに捧げることは難しいです。地域教会を通して必要がある人に施されているとは思いますが。
なので、あえて区別することで、もっと積極的にお金を「神と人を愛する目的に沿って使う」ことを実践できます。
このような使い方をすると礼拝での献金とはまた違った、喜びが生まれます。
私は妻と相談し、礼拝で捧げる献金以外に、人のために使う予算を設けています。だから、必然的に十分の一は超えます。十分の一に拘っていたら、リミッターがかかって積極的にお金を使えません。
もちろん、献金と施しを明確に区別はできません。
人に施しても、最終的に神様に対してしているからです。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
聖書(マタイの福音書25・34-40)
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
必要を感じている人に施し、必要を満たす行為は、神様が喜ばれることです。
貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。
聖書(箴言19・17)
このように人に施すことは、「お金を神と人のために捧げる」行為です。
まとめ
「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのでしょうか?
今日は、その二つ目、「必要のある人に施す」です。
三つのポイントで、施しについて見てきました。
- ①施しとは何か?
- ②施しをするときの注意点
- ③施しと献金の違い
次回は、「お金を神と人のために捧げる」とは具体的にどのように実践すれば良いのか?
3番目の方法について聖書から説明します。
乞うご期待!